先日山行した藤原岳。
過去に “ スキー場 ” があった事実が判明しました(今更ですが。。。)
いろいろとネットを検索していると、現在でもバックカントリースキーが盛んな山であることも知り得ました(ビックリ😯)
「是非ともやってみたい❗️」衝動にかられ、来シーズンに備えることにする。
その藤原岳を知るために、過去にあったスキー場、どんなものであったのか???
過去の文献を交え、記述していく。
ポイントとなるキーワードは、
1️⃣藤原岳
2️⃣石灰石
3️⃣セメント会社
4️⃣三岐鉄道
である。
注)“スキー場が閉鎖した”という情報がどこにも見つからない。
リフトが設置されていたスキー場であれば、撤去したなどで閉鎖した情報があるのだが、自然型のスキー場であったためか、その情報にたどり着くことができない。現在もバックカントリースキーヤーにとっては現存するスキー場であることは間違いないために「今はなき」という表現はどうなのか悩ましいものである。本文はすべて“過去に存在したスキー場”としての表現・表記をしておりますこと、ご了承願います。
まずは、藤原岳の位置から、

琵琶湖の東側、伊勢湾の西側に位置する鈴鹿山脈。
南北に約50km、鈴鹿セブンマウンテンである藤原岳(1,144m)は一番北に位置している。
※鈴鹿山脈の全長についての定義を記する記述に関して林野庁、環境省にはなかった。
藤原岳の山容をGoogle Earthから。

標高は1,144m。
山の東側は、太平洋セメント㈱の藤原工場があり、石灰石の採掘が行われている。
藤原岳山頂までの登山口とルートをご紹介。

①大貝戸ルート(往復)
(恐らく)一番メジャーなルート。
当時(スキー場があった時代)はこのルートからスキー場に向かっていた。
距離: 8.1km
コースタイム: 6時間30分
②聖宝寺ルート(往復)
8合目で大貝戸ルートと合流。
距離: 8.3km
コースタイム: 6時間30分
③孫太尾根ルート(往復)
⚠️現在通行止め
④その他
南からは竜ヶ岳からの縦走。
ここからは、どんなスキー場であったのか迫っていく。
のだが、スキー場ができるまでの藤原岳の歴史に触れてみたい。
スキー場開業にあたり大きな影響を与えたのが、下記であったと断言できる。
・石灰石の採掘(セメント工場の建設)
・採掘物の輸送インフラ(鉄道新線建設)
まずは、(当時)藤原岳石灰石採掘に従事したセメント会社を文献から要約してみる。
日本の2大セメント企業と藤原岳
日本のセメント産業
日本の戦前・戦後のセメント産業は、日本の近代化と復興において非常に重要な役割を果たした。日本で初めてセメントが製造されたのは明治時代初期で、官営工場から始まり、その後民間企業も設立された。軍需やインフラ整備の需要が高まり、セメント産業は大きく成長。
戦後の復興期に入ると、住宅、道路、港湾、ダムなど、あらゆる建設需要が急増し、セメントの需要も拡大。高度経済成長期には、インフラ整備がさらに進み、セメント生産量も飛躍的に増加。セメントは日本の経済成長を支える基幹産業としての地位を確立した。
浅野セメントと小野田セメントと伊藤伝七氏
浅野セメント(後の日本セメント、現太平洋セメント)
明治17年(1884年)7月8日、浅野総一郎氏により、官営工場であった深川セメント製造所を払い下げを受け、浅野セメントが誕生。
大正4年(1915年)には北海道セメントを吸収合併し、上磯工場(現太平洋セメント上磯工場)を獲得。
大正6年(1917年)には川崎工場が操業を開始し、生産能力は飛躍的に向上。
大正8年(1919年)には日本のセメント生産高の半分を占めるまでに至る。
浅野セメントは、単なるセメント会社としてだけでなく、一大財閥である浅野財閥の中核企業としての役割も担っていた。セメント事業で得た資金を基に、海運業(東洋汽船)、造船業、鉱業など、多岐にわたる事業を積極的に展開し、浅野財閥を築き上げた。
昭和22年(1947年)に「日本セメント株式会社」と社名を変更。
平成10年(1998年)10月、日本セメントは秩父セメント株式会社と合併し、「太平洋セメント株式会社」が発足。この合併により、太平洋セメントは日本最大のセメントメーカとなる。
小野田セメント(現太平洋セメント)
明治14年(1881年)5月、長州藩士であった笠井順八氏により、山口県原狭郡西須恵村(現在の山口県山陽小野田市)に「セメント製造会社」として設立。民間で初のセメント会社であった。
大正14年(1925年)1月に愛知セメント株式会社を合併。
昭和4年(1929年)3月に中央セメント株式会社を合併。
昭和13年(1938年)7月には大分セメント株式会社を合併し、津久見工場を取得するなど、積極的に他社を統合。
昭和26年(1951年)11月には、商号を「小野田セメント株式会社」に変更。
平成6年(1994年)10月1日、小野田セメントは関東地方に地盤を持つ秩父セメント株式会社と合併し、「秩父小野田株式会社」が発足。この合併により、国内販売シェアがトップとなる。
平成10年(1998年)10月、秩父小野田株式会社は日本セメント株式会社と合併し、「太平洋セメント株式会社」が誕生。
このように当時2分化されていた大手セメント企業は、平成10年(1998年)に合併を果たし、現「太平洋セメント株式会社」として現在も藤原岳での石灰石採掘を行っている。
伊藤伝七氏とは
10代目 伊藤伝七(いとう でんしち、嘉永5年6月24日(1852年8月9日) – 大正13年(1924年)8月12日)は、明治から大正にかけて活躍した日本の実業家。伊勢国三重郡室山村(現在の三重県四日市市四郷地区)の酒造家である9代目伊藤伝七の長男として生まれ、幼い頃から学問に秀で、20歳で副戸長に就任。父の死後、経営難に陥りますが、三重県令の紹介で渋沢栄一氏の知遇を得て、その援助により明治19年(1886年)に株式会社組織として三重紡績会社を設立し、事業を拡大。現在の四日市市には、10代目伊藤伝七の別邸である伝七邸が国の登録有形文化財として残されており、庭園とともに一般公開されている。
「藤原岳」採掘権の獲得
浅野セメントと小野田セメントは同時期に藤原岳での石灰石採掘に向けての買収交渉をスタートさせる。当時両社間での原料山獲得をめぐり、紛糾が生じ、一時は両社の全面的対立に発展しかねない事態に立ち至った。しかし業界全体が憂慮したこの紛争も、昭和2年(1927年)6月に遠藤柳作氏(当時三重県知事)が調停に入り、両社で原料山を折半する条件で解決。
そしてその際に、県当局ならびに地元では、両社に対して単に石灰資源を開発するだけではなく、一歩進んで当地にセメント工場を建設することを強く要望した。
出典:「小野田セメント百年史」著者:小野田セメント株式会社(1981年)
→「日本セメント産業史」でも同じようなことが記述されている。
“三重県員弁郡にある藤原岳の石灰石を中心に、浅野セメントと小野田セメントの争奪戦が開始”
出典:「日本セメント産業史」著者:永田四郎氏(1957年)
→同時期、石灰石の争奪戦が各地で勃発していた。
・埼玉県の秩父で浅野セメントと秩父セメント
・福岡県の苅田では、豊国セメントと浅野セメント
出典:「中安閑一伝」著者:宇部興産(1984年)
→少し違う視点から、
実業家の伊藤伝七氏が、四日市セメント会社を興して開発に乗り出しはじめた。伊藤伝七氏が興したセメント事業に関心を抱き、協力を名乗り出たのが浅野セメント事業主の浅野総一郎氏であったといわれ、ここに財閥系大資本を背景とした大規模開発への道が開かれる。当時のセメント業界は、第一次世界大戦の好況による生産拡大を図ったところへ、戦後の不況の波が押しよせ、工場の閉鎖・解散が相いだ。その一方で、(旧)日本セメントが浅野セメントに (昭和2年から経営参加,同14年合併)、愛知セメント(大正14年合併)や中央セメント (昭和4年合併)が小野田セメントに合併される等、“東の浅野”と“西の小野田”を柱にしたセメント業界の統合が進みつつあった。藤原岳をめぐる石灰石開発は、そのようなセメント界統合の時期と一致し、四日市セメントを援助するかたちで浅野セメントが藤原岳開発の機をうかがっていた頃、小野田セメントもまた、愛知セントを合併して開設した愛知支社への原料供給を低廉で確保るべく進出の機をねらっていた。ここに藤原岳をめぐって、東の浅野と西の小野田の東西戦が地元を巻きこんで展開することになる。
浅野セメントと小野田セメントが有利な開発権を獲得すべく、相当熾烈な競争を演じていたことは明らかであり、一方で環境の悪化を危惧する地元の反対が根強いものであったことも、当時の他の資料からうかがえる。結局、浅野セメントと小野田セメントのこの争いは、昭和2年(1927年)6月に三重県知事遠藤柳作と伊藤伝七の仲裁によって、多志田谷(※a)を境に、南側を浅野に、北側を小野田に、それぞれ採掘権を与えることで調停をみた。しかし、小野田が地元の反対に遭いつつも東藤原においてセメント工場の買収に成功したのに対し、浅野は長く工場用地を手に入れることができないままであった。小野田セメントは、昭和4年(1929年)から藤原工の建設を開始し、昭和8年(1933年)から生産・出荷を開始する。
出典: 「歴史地理学」著者:歴史地理学会(1980年)
〈※a「多志田谷」の位置〉

「多志田谷」
赤線部付近であると思われる。
※多志田川沿いを多志田谷と呼ぶのであれば位置的に南に行き過ぎている。
セメント搬送に必要なインフラ
藤原岳の資源開発にあわせ、その輸送路の確保を企図して、小野田セメントが「員弁鉄道」を、浅野セメントが「藤原鉄道」をそれぞれの計画を計らう。
2社の鉄道計画とその比較
鉄道名 | 本社 | 資本金 | 軌間 | 動力 | 区間 |
員弁鉄道 | 治田村 | 125万円 | 1067m | 蒸気 | 富田~保々~東藤原 |
藤原鉄道 | 四日市 | 600万円 | 1067m | 蒸気・電力 | 四日市~保々~東藤原~関ケ原 四日市~塩浜 富田~大長 |
この2つの計画線は、出願後に三重県知事遠藤柳作とその要請を受けた伊藤伝七氏の尽力により、最終的には2つの計画を折衷するかたちで一本化され、藤原鉄道として出願されることになる。小野田セメント案と浅野セメント案を一本化した「藤原鉄道」は、昭和2(1927)年11月15日付で敷設免許申請書を提出。この鉄道計画は大筋において、計画当初からセメント業界という特定産業の利害を優先していたものと考えられる。
四日市駅-長深間13.3kmの四日市線、富田駅-長深間9.2kmの富田線、長深間-関ヶ原42.3kmの関ヶ原線、四日市-塩浜間3.8kmの塩浜線及び塩浜線と国有臨港線を結ぶ四日市市内の0.6kmの連絡線から成っていた。四日市、富田、関ヶ原の各線は藤原岳付近のセメント工場と国鉄線を結ぶとともに、この地域の地域内交通を担う目的であった(ここが大きなポイントである)
誕生した三岐鉄道(さんぎてつどう)
藤原鉄道から三岐鉄道へ
藤原鉄道は、昭和3年(1928年)11月1日付で社名変更届を提出して「三岐鉄道」を名乗り、翌日付で株式会社設立届が提出された。
三岐鉄道は、国有鉄道ではなく、民間資本による「地方鉄道」として建設された。しかし、それを地域社会の側からみれば、あくまでそれは「地方鉄道」の「誘致」であって、「(自力)建設」ではなかった。換言すれば、三岐鉄道は「地方鉄道」として建設されはしたものの、地域社会にとっては、改正鉄道敷設法の予定線としての勢江線の出現と何ら変わらないものとして認識されたわけである。
浅野セメント・小野田両セメントと伊藤伝七氏、それに若干の地元資本が加わるという資本構造は、その後も大きな変化のないまま推移。
昭和6年(1931年)7月23日に富田-東藤原間で開業し、5ヶ月後の同年12月23日には東藤原-西藤原間も開業させた。
昭和9年頃からセメント輸送が本格化、輸送量は飛躍的に増加してくる。
出典: 「歴史地理学」著者:歴史地理学会(1980年)
地域概観と鉄道路線(昭和6年)

生い立ちから現在まで
当初三重県から岐阜県の関ヶ原まで路線を延長する計画があったため、三重県の「三」と岐阜県の「岐」を取って三岐鉄道と名づけられた。しかし、実際は岐阜県には到達しておらず、三重県四日市市の近鉄富田駅(JR富田駅)から、三重県員弁郡藤原町の西藤原駅までの営業キロ27.6kmの単線鉄道です。昭和6年(1931年)7月23日に富田~東藤原間、同年12月23日に東藤原~西藤原間の運輸営業を開始し、当初はガソリンカーで旅客輸送を、蒸気機関車で貨物輸送を行っていた。
昭和29年(1954年)に全線が電化され、まず貨物輸送を電気機関車にし、昭和35年(1960年)には旅客も全列車電車に。
昭和45年(1970年)には近畿日本鉄道の近鉄富田駅に連絡する新線を開通し、その路線で現在に至っている。
出典:「トランスポート」著者:運輸振興協会(1999年)

藤原岳をバックに走るセメント列車
出典:「三岐鉄道50年の歩み」著者:三岐鉄道株式会社(1981年)
勢江鉄道(いせてつどう)とその計画
→別の文献より、三岐鉄道設立までの起案となったものに触れてみたい。
当時、官営鉄道が神戸から関ヶ原まで延伸され、また、北陸線の敦賀-長浜間も完成間近でいた。その関係から、稲葉三右衛門氏は、四日市港から関ヶ原を経由し、敦賀港までを結ぶ本州横断の大規模な鉄道路線の敷設を考えていた。これは本州の中央部にあたり、太平洋から日本海へ抜ける物資の流通ルートとして最短距離になり、開通すればその役割はかりしれないものになると予測していた。だが、この計画は、当時の鉄道局長井上勝の「幹線や主要鉄道路線は国営によるべきである」という考えから実現をみなかった。しかし、稲葉三右衛門氏の考えは継承されていた。大正7年、三重県選出の政友会議員天春文右衛門(四日市市中村町)の手によって、四日市市から米原に至る36マイル8チェーンの「勢江鉄道敷設に関する建議案」が、第40帝国議会に提出され、これが可決されて政府への請願となった。
政府も、この勢江鉄道の必要性を認め、同年末には実地踏査を行なっている。その結果、四日市から米原に至る経路よりも関ヶ原に出て、そこから北陸本線の醒ヶ井に接続する方がよいということになった。大正8年(1919年)5月、四日市商工会議所が中心となって「勢江鉄道期成同盟会」が結成され、沿線住民も含む関係当局に対して実現のための激しい陳情が展開された。その結果、大正10年(1921年)の第44議会で改めて「勢江鉄道速成ニ関スル建議案」が可決されている。
大正12年(1923年)に着工が決まったが、同年9月に関東大震災により延期、その後財政などの諸事情にから立ち消えとなった。



三岐鉄道によるその他のインフラ
乗合バス事業の再開
昭和28年ごろ、鉄道の補助機関として交通不便な沿線町村と当社線との連絡、さらに四日市方面への連絡が必要となり、戦時中、ガソリン不足などにより営業を廃止した乗合バス事業を再開することになった。
貸切観光バス事業の開始
生活の安定にともない、団体旅客による観光旅行が時代の波にのり、増加しつつあるのに対応して、貸切バス事業を開始すべく、昭和28年5月20日、一般貸切旅客自動車運送事業の免許申請を行う。他社との関係もあって、昭和31年10月、四日市市・桑名市・三重郡・桑名郡・員弁郡を事業区域(顧客を獲得できる区域)とする免許を受け、貸切バス3両をもって営業を開始。
不動産業
昭和45年から関連会社の三岐開発と共同で「あかつき台」を開発し不動産業を開始。
石油類とLPガスの販売
石油類の取扱いは、大協石油四日市製油所から小野田セメント藤原工場へセメント製造用燃料として、当社線に乗って納入されていた重油の、納入代行手数料を当社が取得することになったのが、きっかけとなる。ガス(LPG)販売については、昭和54年2月、営業許可を受け、同3月から大協石油のガス販売特約店として営業を開始。
サービスエリアへの進出
昭和50年10月22日、御在所サービスエリア下り線「三岐レストラン」として営業を開始。食堂は120席を有し、売店、各種自動販売機を備え、昭和55年度の総売上高は4億8千万円、1日平均132万円、1日最高売上高は408万円を記録。
国民宿舎「登竜荘」の経営
大安町が昭和44年、宇賀渓に建設、営業していた国民宿舎「登竜荘」を、当社が譲りうけ、改装をおこなって55年10月営業を開始。
三岐通運株式会社の設立
昭和26年10月、小野田セメント藤原工場において生産されるセメントを、当社鉄道の貨物輸送と並行して、円滑に輸送するため、小野田セメントと当社の共同出資により、トラックによるセメント輸送を目的として設立。
三岐タクシー株式会社の設立
タクシーの利用度が増加の傾向にあり、自家用乗用自動車を持つことが検討されたが、タクシー会社を設立した方が当社はもとより、関係会社ならびに一般客も利用でき、より効果的であるとの結論に達し、昭和35年11月、当社の全額出資により設立。
などなど。
そして藤原岳にある(あった)スキー場開発へと繋がっていくのだ。
出典:「三岐鉄道50年の歩み」著者:三岐鉄道株式会社(1981年)
藤原岳スキー場の開発
自然豊庫を利用し、昭和26年(1951年)から毎年、当社沿線の小・中・高校生の自然科学の学習に役立てるため、藤原岳と宇賀渓を中心に自然科学教室を開き、植物・昆虫・鉱物の採集大会などを実施している。
また、山頂付近の広大なスロープは、手近で、雪が豊富な「藤原スキー場」として開業当時から知られていた。そこで本格的なスキー場の建設を進めることになり、昭和28年(1953年)久居駐屯地の自衛隊に依頼し、伐採演習の名目で、8合目までの滑走コース、登山道の改修などを短期間で完成してもらった。またこれと並行して、藤原山荘の建設もおこなった。山荘の木材は、村人が1本1本背負って運び上げたものである。
そして翌29年2月(1954年)、第1回県民スキー選手権大会が、高松宮殿下ご臨席のもとに、この藤原スキー場において開催され、殿下もスキーを楽しまれた。
また、31年(1956年)2月にも、高松宮殿下ご臨席のもと、第6回中部日本スキー大会が開催された。
こうして藤原スキー場は、広く知られるようになり、唯一の障害である登山の不便さを解消するため、昭和41年(1966年)、2合目付近から8合目付近まで、延長1,271mの登山リフトを計画したが、日の目をみるにはいたらなかった(涙)
近年、降雪量の減少とモータリゼーションにより、スキー客の減少は寂しいことである。


出典:「三岐鉄道50年の歩み」著者:三岐鉄道株式会社(1981年)
当時のスキー場パンフレット


✅️「大スキー場までは約三十町で、普通一時間四十分位で達します」
三十町:約3.3kmを登り、スキー板を担いで100分とは、先人のパワーは凄まじい!


✅️「普通一時間四十分位で達します」の表記がなくなっている(笑)


✅️表紙の女性スキーヤーが年代を感じ、趣がある。
「ヒュッテは二ヶ所、一は貸しスキー、一は簡易宿泊所」簡易宿泊所みてみたいですね(表記の仕方も嘘がないように思われる)


✅️「宿泊料 二食付 一圓」
現在換算: 数千円~一万円程度(AI調査)


✅️漢字とカタカナのフォント違いも味がある。
あと「フヂワラのヂ」変換に悩んでしまう(笑)


✅️ここで写真が登場。
男尊女卑がまだ残っていた時代に女性スキーヤーを表紙に。当時としては斬新であったのではないかと思われる。
ロープウェイやリフトがないスキー場、昔は一般的だったのかもしれない。
一般的と記したが、戦前・戦後の時代背景から(割と)裕福な方の趣味(スポーツ)であったのではないかと思われる(豪雪地帯ではない地域でもある)
そやけど、スキー板を担いで登り、滑り、また登り滑る。このとてつもなく単純な作業、相当な体力が必要である。何回も何回も繰り返しことも難しいのではないのかと勝手に思う。
いやもしかしたらリフト自体が横着な乗り物なのか???
【出典】
・Google Map
・Google Earth
・「小野田セメント百年史」著者:小野田セメント株式会社(1981年)
・「日本セメント産業史」著者:永田四郎氏(1957年)
・「中安閑一伝」著者:宇部興産(1984年)
・「歴史地理学」著者:歴史地理学会(1980年)
・「トランスポート」著者:運輸振興協会(1999年)
・「三岐鉄道50年の歩み」著者:三岐鉄道株式会社(1981年)