【誰もいない池面は秋の装い】=堂満岳~ナタノホリ=(#87)

ハイキング


比良山地に存在する池溏巡りシリ~ズ。
シリーズ化しているわけでもないのだが、雪が降る前に制覇(?)しておきたいとの想い。
今回は、駐車場(標高293m)~金糞峠(標高878m)~堂満岳(標高1057m)~ノタノホリ(標高437m)の周回コース。終盤にノタノホリを辿るために、反時計回りでの山行。

山行ルート

距離: 8.1km
標高差: 855m



山行動画はこちら。
ご視聴いただければ幸いです。

🏔️#87








今回のブログでは、「金糞峠」にある“金糞(カナクソ)”とは? にふれてみたい。
動画途中にもでてきたように、金糞とは? 「金屎」のことではないか?
金屎とは? 「一般的には、金属の精錬や加工の際に出る「かす」や「不純物」を指すことが多い」

では、なぜに? 山の峠に「金屎」と呼ばれる場所が存在するのか?
また、琵琶湖対岸、伊吹山の北側には「金糞岳(1317m)」という山が鎮座している。
滋賀県内では、伊吹山(1377m)に次ぐ標高を有している。

琵琶湖を挟み、東西に“金糞(カナクソ)”とのネーミングは、何か深い関わり合いがあり、一つの産業として栄えた時期があるのではないのかと考察できる。
一つ一つ掘り起こしてみることにする。


まずは、情報が多い「金糞岳」から考察してみたい。

金糞岳は伊吹山のほぼ中央にあたり、1,300mを越す、伊吹山に次ぐ高峰。南の盟主を伊吹山とするならば、四方に長大な尾根を張り出し、その上にどっしりと根をおろした山容は、まさに中央部の盟主として、十分の貫禄をもっている。

文献より、
『金糞岳とは、金石を溶錬する際に生ずるカスをいうのであって、金屎とするのが正しい。おそらくは、明治年間、陸地測量部(現在の国土地理院)が初めて地図を作った時、係官は山麓の住人にこうたずねたことだろう。「あの山を何と呼ぶかね。」
「あ、カナクソというるでえ。」
「そうか、金糞岳か。」
と屎の字を思いつかないまま、金糞岳と彼は野帳に書き込む。村人は字を知らないなあーと、感心している間に、金屎岳は金糞岳になったというしだいである』
出典:「ぎふ百山 岐阜県山岳連盟 1975年」



☑ほんまかいな~、と言いたくなるネーミングである😅

☑近しい考察を記述した書物があった。

『金糞岳の名が一般に使われる以前に、近江側の山麓ではこの山を「ミタニ」や「ノタ」と呼んでいた。「ミタニ」はとはこの山へつめる谷の名であり、「ノタ」とは菖蒲、泥田、湿地を意味するが、頂上付近にそのような所はないので明らかではない。しかし、頂上の南斜面に春遅くまで残る雪田長浜付近から晩春の伊吹山地を眺めるとこの雪だけが見え印象的であるを「ノタの千雪(ほしゆき)」と呼んでおり、麓の部落の田への水入れと「ノタの千雪」の残雪の印象的な季節が一致するので、何か関連がありそうな気もする。
また、美濃側の坂内村川上では、「雨の日は猿山で天狗が太鼓をたたく」という話がだいぶ昔から伝わっている。近江側の高山では、「この山は掘っても、かすしかでないかす山じゃ」という、うがった見方をする人がある。事実、以前にこの山の西南の滝谷で採掘をしていたこともあるそうだ。寛保2年(1742年)の『近江国大絵図』にはカナクソガ嶽、安政3年(1865年)の地図には金居嶽となっているから、案外、杉野川最奥の集落である金居原の上にある山という意味が転訛したのかもしれない』
出典:「秘境・奥美濃の山旅:伊吹山から能郷白山へ 芝村文治氏 1972年」

☑実際にこの周辺には鉱山採掘が行われてきた経緯がある。

『明治40年になると、土倉※1に銅鉱が発見されて採鉱が始まり、この山深い谷間に鉱山事業所や宿舎が、鉱山の村と化して急激に繁栄への道を歩み出した。400人もの人々が生活をしていた。しかし、昭和14年~15年の2度の雪害に123名も死者を出すしたので、その雪害や水害をさけるために、昔の村の人々のように昭和15年に鉱山の事業所や宿舎を出口土倉に移転した。その後、山元で精錬された銅や硫化は年間15,000トンにも達したので、北陸本線の木ノ本駅まで約13kmの架空索道を作って運び出した。その最盛期には800人近い人々が働いていた土倉鉱山も、しだいに鉱脈が急化してきて経営が苦しくなり、ついに昭和40年には閉山されて人々は去り、土倉と出口土倉は廃村になった。現在、橋を渡り左へ約2kmの上流にある鉱山跡※2は、インカの遺跡を思わせる赤茶色の階段状の抗道がまわりの深い緑の中にむきだしになり、おそらくは雪害で亡くなった人々を埋葬したのであろう卒塔婆の群が、ヤマブキやイタドリの葉の中に乱立してなんとも不気味な雰囲気をただよわせている』
出典:「秘境・奥美濃の山旅:伊吹山から能郷白山へ 芝村文治氏 1972年」

※1: 金糞岳から北西の位置
※2: 土倉鉱山跡

☑現存する「土倉鉱山跡」
(重要文化財としてほしい風格)
出典:「もりのもり」webサイトより
☑全盛期の採掘活動の様子(いつのものか不明)
出典:「もりのもり」webサイトより

「土倉鉱山」で実際に採掘されていた鉱物とは???


土倉鉱山で採掘されたのは、主に含銅硫化鉄(cupriferous pyrite)の鉱石です。この鉱山は層状含銅硫化鉄鉱床に分類されています。採掘された鉱石は、主に銅と鉄の硫化物を含んでおり、その主要な構成要素は以下の通りです。

主要な構成鉱

鉱石の概括的な鉱物組成(割合)として、以下の物質が確認されています。

石英 (Quartz/二酸化ケイ素): 49%
黄銅鉱 (Chalcopyrite): 32%
緑泥石 (Chlorite): 7%
硫化鉄 (Pyrite): 6%
閃亜鉛鉱 (Sphalerite): 3%

出典:「滋賀県土倉鉱山の鉱床と構造規制 畠中武文氏 1964年」



☑他にも、金糞岳の周辺(特に北西部)には数々の鉱山跡が確認されている。
諸説あるが、鉱山≒金屎≒金糞が有力ではないとかと思われる。


では、次に金糞峠の名称の由来はなんぞや???

『県教委文化財保護課の丸山竜平技師や、地元の志賀町小松松神社・樹下神社の伊藤官司らが調べた話では、昔は北小松や南小松の比良山ろくから金屎がかなり出て、峠のガレ場にもあったらしい。
『日本書紀』第二十六に、第三十七代の日に、天皇が近江の平浦(ひらのうら)。現在の志賀町北小松南小松あたりらしい)に出向かれたことが記されている。伊藤官司らは、この行幸は、比良の金屎に関係があったのではないかとみている。志賀町の近江舞子沖合には湖岸にそって、かなり大きな“成鉄のたまい”が発見されている。これも比良の鉄脈を裏付ける材料だという。』
出典:「比良の詩 山本武人氏 1977年」

☑これ以上の情報は特になし。。。😂
ということで、金糞≒金屎の定義でネーミングされたのではないかと思われる。
いつの時代なのか定かではないが、設備・専用機械もない状態で鉱山採掘を行っていた先人はやはり尊敬にあたいする。

まだまだ比良の池塘巡りは続いていく。




【出典】
 ・Google Earth
 ・「ぎふ百山 岐阜県山岳連盟 1975年」
 ・「秘境・奥美濃の山旅:伊吹山から能郷白山へ 芝村文治氏 1972年」
 ・「滋賀県土倉鉱山の鉱床と構造規制 畠中武文氏 1964年」
 ・「比良の詩 山本武人氏 1977年」